描くこと写真を撮ること

小さな頃は教科書の白いスペースに絵を描いていた。
ノートの表紙も絵を描いていたので自分のノートだとすぐに分かった。
小学校の頃は図画工作。
中学と高校では美術の時間が一番の憩いの授業だった。
テーマがあるものを描いても自由なモノを描いても楽しいのはどちらもおなじ。
そして成績も5から変わったことがなかった。

友達はほとんど居なかった。
中学の校内から出て外の公園で写生をする授業になると同級生が周りに集まる。
その俄か友達は「福井くん、何を描くんや?」と聞いてくる。
そして僕が描き始めたあとを真似るように描き出すのが常だった。

高校生になると入試に関わるものは主要4教科という。美術は補助教科。
授業中には髪の毛が長くて大きなリボンを付けた可愛い女の子の後ろ姿を描いてた。

父親とは考え方に大きな隔たりがあり、普通科の大学受験をして合格もしたが行かなかった。
「絵や写真なんかは趣味でやればええ!」と言われたのが悔しかった。
1年間は何処にも行かず絵を描いたりカメラを持ってあちこちの写真を撮って過ごした。

翌年、グラフィックデザイン学科のある短大に入学した。
周りは絵を描くのが好きな女の子がたくさんいた。男女の比率は2:8ぐらいで大半が女の子だった。
そこで入江泰吉先生の授業を受けた時に先生に呼ばれた。
「福井君は絵を描けるし写真がとても良い。写真家は絵が描けないとダメなんだよ。岩宮さんのいる大阪芸大の写真学科に行く気はないのか?」と言われたのがキッカケで短大を1年で中退して芸大を受験した。

芸大の写真学科に入って驚いたことがあった。
入学してきた学生の何人かははっきり分からないが、絵が嫌いだと言うこと。
絵が描けないから写真を撮りたいと言う。
ほかにも写真館の子息で後継。
絵なんか関係ないと言っていた。
1回生の時には写真の授業が無かったからだ。
そこで辞めていった同級生も居た。

1回生の時の1974年10月24日事故に遭った。
通学に使っていたバイクに乗って大学を出てすぐ前の道である。
僕の前を走っていたスカイラインバンが速度を落として左側に寄ってくれたので追い越そうとした時、クルマが急に右にハンドルを切ったので止まれずに運転席のドアかピラー辺りに激突して意識を失った。
道路に横たわっている時に秋の明るい太陽が眩しかった。
そこで意識が途切れた。

約50日後、正月が明けて大学に戻った。
利き手の左腕と手首が折れて薬指が砕け、その腕をギプスで固定したまま、切れた唇は縫ってはいるが未だに腫れ上がり、歯は前歯が9本折れ、肋骨も折れていた。

惨めな格好でデッサンの授業に出た。
先生は怪我を気遣ってくれたが、毎週提出していた課題が10月後半から欠落しているため、残りの授業の課題を全て提出して全てが80点以上でも不可になる可能性があると言われた。

しばらくして教授室に呼ばれた。
「今まで提出してきた課題成績が良かったので、欠席していた時の課題を今から描いてこい。これは特例だから。」と言われた。
その時に左手が利き手だとは言えず、「はい、描いてきます!」と言うのが精一杯の嬉しさだった。
慣れない右手でデッサンをして休んでいた時の課題を描いては教授室に持っていった。
3月末に成績表が配られた。
落とした科目もあったが、デッサンは“優”がもらえた。
うれしかった。

印刷会社に勤めだした頃、手先の器用さとカメラの特性を知っていたのが役に立って重宝されたが、相変わらず人に好かれるタイプの人間ではなかった。

1987年。33歳の時にApple computerと出会い、ショックを受けた。
あの頃の日本はNECのPC-98の天下で、98以外はパソコンにあらずと言った風潮が世間一般の評価だった。

その時に初代のMacPlusを買った。
絵を描く事が出来るのが素晴らしかった。
それを見た友人は嘲笑うようにペイントソフトのことを「お絵描きソフトやな」と言った。

そのあとApple MacintoshはPowerPCとなってAdobe IllustratorやAdobe Photoshopにどっぷりとハマり、やがてそれが仕事になった。

グラフィックソフトのことをお絵かきソフトと呼ぶような奴はあの頃も今も大嫌いだ。

絵やイラストを描ける人は素敵だ。無条件で信頼する。